自燈明―捨てる自分、活かす自分
玄侑 宗久
玄侑さんの本は、本当に読みやすい!
今回の本は今までの中でもトップかもしれないぐらいの読みやすさだった。
まるでとなりで朗読してもらっているような・・・
そして、中身はギュっと詰まっている。
他の本でも見かけた内容もあるけれど、「なるほど〜」と頷けるところが沢山あった。
「中道」の話とか・・・
今まで仏教の「中道」と儒教の「中庸」は一緒の意味だと思っていたのだが、微妙に違うことだということがわかった。
私はやっぱり「中道」を行こうと思う。
簡単に言うと、中道とは極端にならずに、バランスをとって生きようってこと。
中庸とは極端なことはしないという意味らしい。
同じようで、同じではない。
中庸の極端なことをしないということは、冒険をしないという意味にもとれる。
中道はどっちも知って、そのどちらにも偏らないということ。
冒険をして、失敗をして、バランスを知るということなのだと思う。
お釈迦さまは、最初は王子として贅沢三昧の日々を送り、そして本当の幸せを求めて出家し、苦行もしてみた。結果、どちらでもない、中道だと悟ったのです。
もちろん、全ての人が苦行をしなければ悟れないという意味ではありません。何を「苦」だと思うかは人それぞれの主観によりますし。
私が思う「苦行」とは、何かトラブルが起きたとき、嫌な人と付き合う時、すべて苦行だと思って、修行だと思って、逃げずに立ち向かうことだと思っています。
楽しいこと、苦しいこと、両方体験しても、心は常にその真ん中にあるように、自分の心をコントロールすることが「中道」かな?と思います。
以前は、苦しい時にはなるべくコントロールしようとしていましたが、楽しい時はコントロールしませんでした。自制が利かず、舞い上がって、我を忘れたりしたこともありました。その結果、その後自己嫌悪に陥ったりするので、最近は楽しい時こそ、コントロールが必要だな、と思います。
それは決して、無関心、無気力、無感動になれ・・・ということではなく、楽しい時も我を忘れることなく、手綱を放さないで少し遊びをもって、馬が行きたいところに行っていると見せかけ、実は馬をコントロールしているというように、自分自身を自由に解放させつつも、いつでも引き戻せるようにするという感じです。
難しいですが。
最近、ちょっとそんな風に思うようになりました。
それから、ちょっとショックなことが書いてありました・・・
私は最近、死んだら散骨してもらおうって思っていたのですが、それは「共同体をなくした人の在り方」だと玄侑さんが書いていたのです。別にみんなと同じでいいじゃないか・・・と。
死んでまで個性を発揮しようとしてる、みたいなことを書いてました。
ガーン・・・
みんなが散骨したら公害になるとも書いてます。
結局「わたしくらいはいいでしょう」という考えだと言うのです。
ええ〜、そうなのかなぁ?
玄侑さんの意見は結構「うんうん」と納得出来ることが多いのですが、これだけはちょっと違う!と反論したくなりました。
私は「みんなと違う方法で埋葬されたい」ということではなく、お墓なんていらないし、死んだら自然に還りたいという気持ちだったのですが・・・
本当は出来れば火葬せずに土葬がいいのです。地域によっては土葬が許可されているところもあるらしいですが。小樽はどうなのかな?たぶん、無理ですよね〜
樹木葬もいいなぁって思っているのですが、それも地域が限られてしまいます。
骨となってずっと残るのは・・・なんだかミイラとかわりない気がして。
別に死んだ肉体に執着はないですから、お墓にいても、散骨されてもどうでも良いと言えばいいのですが。骨だって、未来永劫残るってこともないでしょうし。いずれは朽ち果てて、自然に還るんでしょう。
玄侑さんに否定されたのがちょっと悲しいですが、やっぱりお墓に入りたいとはなんだか思えないのです。維持するお金もかかりますし。日頃信仰してないのに、葬儀の時や命日にだけ、お経をあげてもらったりしても、どうなのかな?って。お寺はこういう人が増えたら困りますよね・・・玄侑さんの立場からすれば「散骨賛成!」とは言えないのかも 笑
お墓がなくたって、記憶に残ればいいし、時々思い出して心の中で手を合わせてくれれば、それでいいかな?って思います。
私のことを知ってる人がいなくなれば、それで終わり。それでいいと思っています。子供がいれば別ですが。
お墓と土葬の中間、「中道」で散骨・・・というのは、違うかしら? 笑